「幸せになる勇気」を読んで

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みなさん、こんにちは。ふみかんです。

読書感想文シリーズ第五弾。

今回は「幸せになる勇気(著書:岸見一郎、古賀史健)」についてです。

以前、同著者による「嫌われる勇気」についてブログを書きました。

本著はその続編、すなわち「勇気の二部作」の完結編となっております。

本のあらすじ

それはもっと、明るく友好的な訪問になるはずだった。

青年は、3年前自分にアドラーの思想を教えた哲人のもとを訪ねていた。

彼はすっかりアドラー心理学に魅了され、これをもっと多くの人に広めるべきだ、特にこれからの未来を担う子供たちにこそ教えるべきだと考え、教師となっていた。

しかし学校でアドラーの教えを実践しようとすると、生徒だけではなく教師や親からも受け入れられない。教育は上手くいかず、生徒からは舐められ、学級は荒れる一方だ。

青年は「アドラー心理学は理想を語るだけの宗教であり、現実の教育では実践できないものだ」と結論づける。そして哲人がこの危険な思想を広めないよう、哲人の目の前でアドラーを打ち捨てるべく、最後の訪問を決意したのであった。

最初の訪問時はアドラー心理学が何たるかを知らず、その画期的な内容に衝撃を受けるばかりだったが、今は違う。アドラー心理学の骨格を知り、自ら書物を読み漁り理解を深めた。そのうえで、教育に関しては自分の方が経験豊富だ。青年はこの日の議論で哲人を打ち負かす自信があり、その決心を固めていた。3年ぶりに再会した哲人と青年の議論が夜通し展開されていく。

「いま」が過去を決める

前作「嫌われる勇気」ではアドラー心理学の基本となる考え方「目的論」について書かれていました。簡単に説明すると、我々の現状は「過去のある出来事によってもたらされた結果」ではなく「自らの目的の為に生き方を選択している」という考え方です。

これは「いま」について目的の為に意味づけをしているということですが、これは過去に対しても言えるのです。

例えば教師に厳しくしつけられ辛い学生時代を送っていた人が大人になって過去を振り返った時、どのような感情を抱くでしょうか?

原因論で考えると同じような過去を背負った人はその結果として同じような思いをして同じような行動に繋がっているはずですが、実際はそうではありません。

「あのとき厳しく指導してくださって、ありがとうございました」と感謝の気持ちを持つ人もいれば、「あんな学校、あんな教師に感謝などしていないし、よい思い出になるはずがない」と不満を持ち続ける人もいます。

この違いはなんでしょうか。

それはその人が「いまの自分」をどう捉えているかです。「いま」が過去を決めているのです。

「いまの自分」を積極的に肯定しようとする時、過去はカラフルに彩られます。「いろいろあったけど、これでよかったのだ」と総括するようになるのです。

他方「いまの自分」に満足していない場合は、理想には程遠い自分を正当化するために過去を灰色に塗りつぶしてしまいます。現状を過去のせいにする人が、過去をよい思い出にできるはずがありません。「もし理想的な学校で、理想的な教師印出会っていたら…」と可能性の中に生きようとしてしまうのです。

野良犬のエピソード

もうひとつ、過去は「いまのわたし」を正当化するために自在に書き換えられていくという事例で野良犬のエピソードが語られています。

哲人がある男性をカウンセリングしていた時、その男性は「子供の頃、犬に襲われて足を嚙まれた」という思い出を話しました。

母親から「野良犬に会ったらじっとしていなさい。逃げたら追いかけてくるから」と教わっており、実際遭遇した時に逃げずにじっとしていたら襲われて足を嚙まれてしまったのです。

この思い出を話した時、男性は「世界は危険なところであり、人々はわたしの敵である」というライフスタイル(世界観)を持っていました。野良犬のエピソードは、身の回りには危険があり人の言うことを鵜呑みにすると痛い目を見るということの象徴だったのです。

ですが哲人とのカウンセリングを通じてライフスタイルを選びなおし、少しずつ「世界は安全なところであり、人々はわたしの仲間である」という考えを持つようになってくると、更なる記憶が掘り起こされていきます。

野良犬に嚙まれてうずくまっていると、自転車で通りがかった男性が彼を助け起こし病院まで連れて行ってくれたという記憶です。

これは「自分が苦しいときも人が自分を見つけてくれて手を差し伸べてくれる」ということの象徴になるようなエピソードです。

言いつけを守り野良犬にかまれた。うずくまっているところ見知らぬ人が自分を助けてくれた。これは一連の事実であったでしょう。ですが人は「いまの自分」に応じて、その考えや目的に沿う出来事だけを過去とし、それに反するものは都合よく消去してしまうのです。

暴力という名のコミュニケーション

教師となった青年はアドラーの教え「叱ってはいけない、ほめてもいけない」を実践します。ですが生徒から舐められ、学級が荒れてしまいました。

これではダメだと焦った青年は問題行動に走る子供を叱り始めます。それでも反省の色を見せない彼らを見て「体罰が許された時代の教師たちを羨ましく思うことさえある」とこぼしました。

しかし哲人は、暴力というコミュニケーション手段について青年には同意しません。

コミュニケーションの手段

人々がコミュニケーションを取る目的とは、「合意の形成」です。伝えるだけでは意味がなく、伝えた内容が理解され、一定の合意を取りつけたとき、はじめてコミュニケーションは意味を持ちます。

しかし哲人と青年が長い時間をかけて議論を重ねているように、言語によるコミュニケーションは相当な時間と労力を必要とします。しかも費やされるコストの割に即効性・確実性があまりにも乏しいです。

それにうんざりした人、議論で勝ち目がないと思った人がどうするか。そこで選択されるコミュニケーション手段が「暴力」です。

暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけず簡単に要求を押し通すことができます。

つまり暴力とは、コストをかけることに我慢ならない者が使う安直なコミュニケーション手段なのです。そしてそれは人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。

また、殴る蹴る等の暴力でなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする。それらの行為も安直な「暴力的」手段と考えられます。

青年は、自分が学校で生徒を叱っていることを「暴力的」で愚かだと言われ、激しく反発します。感情を爆発させて怒鳴り散らす怒りと違い、自分は計算して冷静に叱っているのだと。

しかし、我を忘れて激昂する人が実弾入りの銃を向けているとすると、青年の言う「叱る教育」は実弾の装填されていない空砲の銃を向けている状態だと言えます。相手からすると銃口を向けられている事実は同じなのです。

むしろ自らの叱責を正当化する人は「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。

愛と自立

教育の目的とは、何でしょうか。

学問を通じて知識を修めること、社会性を身につけること、正義を重んじ、心身ともに健康な人間として成長していくこと…。

どれも大切なことではありますが、教育が目標とするところをひと言でいうと「自立」です。

自立とは、経済上の問題でも、就労上の問題でもありません。人生への態度、ライフスタイルの問題です。

子ども時代に選択するライフスタイル

子どもたちが最初に選択するライフスタイル(人生への態度)は「いかにすれば愛されるか」という基準で選ばれます。

新生児は自身の力だけでは生きていくことができません。己の弱さをアピールすることによって周囲の大人を支配し、自分の望み通りに動いてもらわないと、明日の命さえ危ぶまれます。

つまり彼らは甘えやワガママで泣いているのではなく、生きるために「世界の中心」に君臨せざるをえないのです。

命に直結した生存戦略として「愛されるためのライフスタイル」を選択するのは必然と言えます。

自立

しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできません。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならないのです。

世の中には、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論む人がいます。彼らは泣けば済むと思っているし、傷をさらけ出せば免罪されると思っています。そのような大人を、アドラーは「甘やかされた子ども」と断じ、そのライフスタイルを厳しく批判しました。

子ども時代に選択する「愛されるためのライフスタイル」 とは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルです。

そして自立とは「自己中心性からの脱却」なのです。

愛すること

わたしたちは親から愛されることを希求せざるをえない時代に、自らのライフスタイルを選択しています。しかもその「愛されるライフスタイル」を強化しながら年齢を重ね、大人になっていきます。

与えられる愛の支配から抜け出すには、自らの愛を持つ以外にありません。愛されるのを待つのではなく、自らの意志で誰かを愛することしかないのです。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れていますが、本当は無意識の中で、愛することを恐れています。それでも、相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛するのです。

愛と勇気は密接なつながりをもっています。

社会心理学者エーリッヒ・フロムは「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかにしか愛することができない。」と言っています。

アドラーならこの「信念」を、「勇気」と言い換えるでしょう。青年はわずかな勇気しか持っていなかったから、過去の恋人をわずかにしか愛することができなかったのです。

自己中心性から脱却し自立を成しえ、人を愛する勇気が持てたとき、「わたし」だった主語が「わたしたち」に変わります。「わたしの幸せ」でもなく「あなたの幸せ」でもなく「わたしたちの幸せ」を築いていけるのです。

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。

愛する勇気、すなわちそれは「幸せになる勇気」なのです。

最後に

ここでは私が特に印象的だった・心に響いた部分を抜粋して記載していますが、本著には「問題行動の5段階」「仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスク」「信用と信頼」など他にも様々な興味深い考え方が載っています。

読書で大切なのは知識を入れることではなく行動することですので、何度も読んで落とし込みながら行動に変えていきたいと思っています。

この本で特に面白かったのは「怒ると叱る」の考え方です。実際私の周りでも「怒るのは悪い上司だけど叱ってくれるのは良い上司」という意見を聞いたことがあります。私自身は怒られるのが嫌いなので「どちらもやめてくれ~、穏やかに伝えてくれ~」と思ってしまいます。笑

でもアドラーから言わせると暴力と同様、安直なコミュニケーションなのですね。斬新でした。

それから、「尊敬」について哲人と青年が議論している際に「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える場面があります。

並行してデールカーネギーの「人を動かす方法」を読んでいたのですが、同じことが書かれていて驚きました。その人と同じ環境に生まれ同じ心を持ち同じ環境で育っていたならその人と同じように考えるだろうと。

大切なことというのはいくつもの本に書かれていることがあるので特に珍しくもないでしょうが、同じタイミングで出てきたのでなんだか嬉しかったです(*’ω’*)

そして今回も前作(嫌われる勇気)に続き、青年の毒づき方が独特で面白い。笑

冒頭から険悪なムードで始まり思わず笑ってしまいました。

普通に読み物として面白いのでまだ読んでない方ぜひ読んでみてください!

今回も、最後までお読みいただきありがとうございました!!

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